
縄文人の蛇に寄せる情熱の噴出が縄文土器
蛇の正体と古代日本人
蛇、この不思議な生物と人間との付き合いは極めて古く、世界各民族は何れも蛇を無視することは出来なかった。
隣国の中国の天地開闢の創世神は、伏儀・女蝸の陰陽神であったが、この二神の神像は人面蛇身の兄妹神で、しかもその尾を互いに絡ませあっているから夫婦関係を示している。要するに中国の祖神は蛇なのである。
この蛇の夫婦神は劫初の洪水を逃れ、天の裂け目をつくろって平和をもたらし子孫を残して栄え、人間の祖となったのである。
このように蛇は人間の祖先にまで高められるのに対し、キリスト教では、性を人類の祖先に教えた蛇は諸悪の源、原罪を作ったものとして邪悪の権化と見なされ、多くの聖画の構図に見られるように天使の足は永劫に蛇を踏みつけ続けている。
こうして蛇は祖先神として尊祟されるか、敵として足元に踏みにじられるか、そのいずれかであった。
万物の霊長として自らを深く恃む人類が、何故この蛇に関する限り、一歩も二歩もゆずって或いはこれを祖先神として信仰し、或いは最大の敵として関心を寄せずにはおられなかったのか。
蛇の敵視も、これを裏返せば畏れに発しているものと考えられ、所詮、人類の蛇に対する思念の深さを裏書きするものに過ぎない。
このような現象の原因は一体何であろうか。
カール・セーガン「エデンの恐竜―知能の源流をたずねて―」によれば、
「人類は生物進化の最終段階にいるが、そうした人間の脳の中には、当然、その進化途上の各段階の生物であった時の部分も組み込まれている。
つまり爬虫類複合体と呼ばれる脳の一番奥の部分は恐竜の脳の働きをしている。それを取り巻く大脳縁辺系は、哺乳類の祖先との共有であり、更に外側の新皮質は霊長類としての人間の理性を掌る。
人間が人間たり得ているのは、脳の85%を占めるこの新皮質のお陰であるが、しかもなお脳はこの三位一体で構成され、根本的には三者の力のバランスの上に成り立っている」
という。つまり人間の脳の中には明らかに恐竜という古代生物が生きているのである。誠にショッキングなことではあるが、動かし得ない事実であって、著者は、「竜(爬虫類)を怖がるとき、われわれの自分の一部が怖がっているのだろうか」と問いかけている。
蛇その他の爬虫類に対して人類が懐き続けてきた崇拝と嫌悪、或いは畏怖は、私どもの脳の最奧部に潜む恐竜に由来するのだろうか。それは人類の遠祖であると同時に、最も恐ろしい敵でもあったのである。
蛇の形態
古来、蛇と人との関わり合いは深く、人間のあるところには必ず蛇があり、両者は絡み合った生活をしてきた。しかし、人にとって最も身近な蛇は、それとは裏腹に、人に最も異質観と違和感を与えたのである。
その第一の理由は、蛇に四肢が無いからこそ、水中を泳ぐ、穴の中の鼠をとる、などの機能がよく発揮できるので、蛇に手足が無いのは合理的で、進化の結果なのである。蛇は自分から積極的に無駄な手足を捨ててきた。手足の働きには限界があり、手足が無いところにむしろ無限の可能性があるとさえ言える。
解剖学的に見ても、蛇の内臓は食道・気管・肺・肝臓とつづき、腸となって終わる。
何もないような細いものの中に、意外に色々のものが全て長くセットされている。
ただ心臓だけは長くはない。心臓はその機能からいって、長くてはそれを果たすことができないからである。肺は片肺だけである。大蛇は進化が遅れていて、変に太い肺が左右にある。蛇が毒を持つのもこの進化の所産である。
縄文土器にみる蛇の造形
蛇を信仰の対象とした古代日本人は、蛇の脱皮こそ蛇に永生と神生をもたらすものとして多大の関心を寄せたと思われる。
脱皮した蛇の生まれ変ったような新鮮な美しさ、その新生の美は彼らの心を捉え、彼らは目をこらしてこの不思議な現象を見守ったに違いない。そうして、自分らにはないこの脱皮の現象を、何らかの形で真似し、擬こうとする。その挙げ句が神祭の中にこの真似を取り込んで、ミソギ(身殺ぎ=みそぎ)としたと私は推測する。



日本の縄文中期土器の特色のなかで、常に注目の的となるのは生々しく活力に溢れた蛇の造形である。
そのような縄文土器の蛇は、要するに縄文人の蛇に寄せる情熱の噴出であって、その表現の荒々しい激しさは、後代の日本文化がもっぱら肌理(きめ)の細かい洗練を旨とし、繊細優雅な美しさを追求してきた様相とは、まさに対称的である。
しかし、蛇に対する思いは縄文時代に限ったことではなく、その後も表面から隠されながら命脈を保ち続け、地下水のように日本文化の諸相の底に縫って流れ、現代に及んでいる。
粗野から洗練へ―他のあらゆる日本文化が辿ったと同じ道筋を蛇信仰も繰り返し、より優雅なそれへと移行していくのである。
縄文時代にみるような露わで粗あらしい蛇信仰は表層から隠されたとはいいながら、それが遙か後代まで生き次いでいる以上、縄文人が蛇に情熱を寄せた理由を考えることは、日本文化の淵源の一つを尋ねることにつながる。
粗野から洗練へ、単純から複雑に。これが文化の辿る筋道であるならば、日本民族の蛇信仰の出発点も同様に、その初めは極めて単純素朴な処にあるに違いない。
(「蛇」吉野裕子 日本の蛇信仰より)